ようこそ!

生きてるし、スケールのでかいこと言わないと

これは梅沢和木"ハイパーランドスケープ"を見に言った際に抱いた感想である。

ここに公開することで、自身のスタンスも示すことができる気がしたので、記す。

 

ここでは"ハイパーランドスケープ"という言葉に込められているであろうオルターモダン的、"観光客"的に景色を超えていくというような"現代アート的"なコンセプト、或いは"現代アート"的な"解釈"はさて置きたい。

東日本大震災に際し被災地の写真の上にアニメの美少女を配した作品も、壮大で深刻な表象に瀕して剥き出しになる"大人(という演劇的な存在、ヒューマン、人類)の稚拙さ"の表現であるように思えたという話も、さて置きたい。(それは意図しているのだろうが、それが何か大層なことを成し遂げたと言う気にもなれない)

 

気になったのは、アニメの美少女のコラージュの作品内に実写のエロ画像が使われていたことと、作者の"陰毛"が展示され、作者の身体性と性が暴露されていたことである。

"陰毛"に関しては身体、すなわち作者そのものでもある。

(陰毛は過去に〜でも使われたことがあるらしい。)

それらによって作者が男性(という物質、肉塊)であるということが強く想起させられた。

そうして"梅沢和木氏の女性(キャラクター)をモチーフにした平面で埋められた会場は、女性に憧れる青年の部屋のようだ"という人類学的な思考(解釈)に至った。

"男"という機械、私たちはどのように"美少女"から逃れられないか、欲望する機械であるかが開示された状況でもあったと思うのである。

というのも、相磯桃花氏の言及が頭の中にあったからである。