「バイト」をバックれた。
前回、カラオケバイトがアホらしいということを書いた。
なのでバックれることにして、バックれた。
店長の電話、店の電話、店長のラインを通話拒否し、店のグループラインを退出してバックれたが、本当に何も音沙汰が無い。
非常に気分爽快である。
世界がゲームの空間の様に、ニュートラルでフラットなものに思える。
オレはオレから見えるこの世界を守って行くべきだと思った。
バックレはきっと、オレが生きていく術なんだと思った。
「バイトする」とは何か?
私は本業で芸術家をしている者だ。
アルバイトを再開したのだが、アルバイトがあまりにもバカバカしく思えてしまうので、ブログでも書くことにする。
カラオケ店で勤務し始めた。
カラーボックスの位置だとかで私は店長に叱られるのだが、申し訳ないことに私からすればどうでもいいとしか思えないのである。
客が見る訳でもないところのカラーボックスの位置で、怒りの沸点がピークに達するような店長のような(分裂症的?)人種の気持ちに添えないのである。
私からすればクビにされれば新しい職を探すだけで、たとえ店が潰れようと私には全く関係のない世界の話にしか思えない。
「店長」という与えられたロールを全うすべくあくまで体裁として「怒る」というコマンドを打つというわけでもなく、本当に心から頭にきてしまうようだ。
私には疑問だ。
そうやっていちカラオケ店のカラーボックスの位置などのことを気にしながら、「責任」とか「心がけ」とか曖昧なワードで人生を飾りながら老いていくのが好きなんだろうと、私は思ってしまう。
それとも自らが「従い、捧げてきた人間」だから、「従い、捧げるのが人間の在り方」だと思っているのだろうか。
申し訳ないが私には私のペースがあるため、これを変えるのは100%不可能である。
私はどうしても反社会性を持ってしまうが、それは絶対に口に出すべきではないということだけは分かっているつもりだ。
バイト先の人が言うようなジョークひとつでさえ、顔はもちろん笑っていても、心から共に笑ってはいない。
早く解雇されることを期待している。
やはりどう考えても普通の考え方からすれば、完全にイカレているのであろう私なのだった。
おわり
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これは梅沢和木"ハイパーランドスケープ"を見に言った際に抱いた感想である。
ここに公開することで、自身のスタンスも示すことができる気がしたので、記す。
ここでは"ハイパーランドスケープ"という言葉に込められているであろうオルターモダン的、"観光客"的に景色を超えていくというような"現代アート的"なコンセプト、或いは"現代アート"的な"解釈"はさて置きたい。
東日本大震災に際し被災地の写真の上にアニメの美少女を配した作品も、壮大で深刻な表象に瀕して剥き出しになる"大人(という演劇的な存在、ヒューマン、人類)の稚拙さ"の表現であるように思えたという話も、さて置きたい。(それは意図しているのだろうが、それが何か大層なことを成し遂げたと言う気にもなれない)
気になったのは、アニメの美少女のコラージュの作品内に実写のエロ画像が使われていたことと、作者の"陰毛"が展示され、作者の身体性と性が暴露されていたことである。
"陰毛"に関しては身体、すなわち作者そのものでもある。
(陰毛は過去に〜でも使われたことがあるらしい。)
それらによって作者が男性(という物質、肉塊)であるということが強く想起させられた。
そうして"梅沢和木氏の女性(キャラクター)をモチーフにした平面で埋められた会場は、女性に憧れる青年の部屋のようだ"という人類学的な思考(解釈)に至った。
"男"という機械、私たちはどのように"美少女"から逃れられないか、欲望する機械であるかが開示された状況でもあったと思うのである。
というのも、相磯桃花氏の言及が頭の中にあったからである。